小野次郎 公式ブログ『ジローのおしゃべりサロン』

霞が関、総理官邸&永田町のすべてに精通する小野次郎のつぶやきとため息

喝!「官の無謬性」が問題だ。

6月27日、佐賀地裁は、諫早湾干拓事業に関する判決で、行政側に堤防水門の開放を命じた。しかし、今日の報道では、事業を進めてきた農水省は判決に納得せず、高等裁判所に控訴の意向であると伝えている。

 「またかよっ?」いつでも、何に関しても、「官」は自ら行いを改めることができない。この事件を今後更に何年もかけて、最高裁まで争うつもりなのか?「官」には、人格が無いから「恥」などあり得ない。にも係わらず「官」に勤める人たちは、行政側の非を認めたり行いを改めることを、「官の恥」だと信じ込んでいる。しかし行政も公務員も所詮、国民の納める税金で雇われ税金を使って仕事をしているに過ぎない。「官」は市民と対立する存在ではなく、むしろこれに奉仕するべきものである。国民に指摘され、訴えられた問題について、行政側が非を認めたり処分を改めることに躊躇する心理が、時代遅れの代物である。

 干拓事業を進める行政と反対する漁民の双方に、それなりの理屈も理由もあるのだろう。同時に、多くの国民は、仮に水門を開ける結末に終わったとしても、「天下国家がひっくり返る」様な問題にはならないことを知っている。そして地元の多くの漁民を納得させられないまま、非常に長期間経過していること自体が、半ば行政側の失政であると認めなければなるまい。
 だいたい、行政訴訟というものは、対等な立場にある「長屋の八つあんと熊さん」の揉め事が法廷に持ち込まれるのとは、わけが違う。国も県も隔て無く、行政機関は最初から全部「官」の味方をする。「法」と「正義」を司る法務省さえ行政訴訟では、優秀なる「虎の子」の訟務検事を繰り出して一方当事者である「官」に加勢をする。裁判所だってどちらかと言えば、「官」に一定の理解を示すものだろう。訴訟を起こす国民からすれば、「オール日本国」を相手に戦わなければならないのだ。そういう「官」にきわめて有利な環境の下で行われる裁判において、まれに裁判官が「官」を諌める判断を下すことがる。そのときくらいは、それを重く受け止めるというのが、国民に奉仕する側の「謙抑性の美徳」というものではないか?
 
 国家賠償訴訟では、原則として公務員個人の責任は認めないこととなっている。公務員に自信を持って職務執行に当たらせる為だと言うのだが、これも「官」の論理からの説明に過ぎない。時には一罰百戒を求める必要性だってあるように思う。他方で、仮に公務員個人には賠償責任が及ばないのだとしたら、尚のこと、「役所」が行った原処分を取り消し・変更することにあくまで抵抗する必要はないと思うのだが?しかし現実には、「官」の側からその点について意識改革が進みそうには見られない。
 
 僕は今、日本の旧い「官」の意識を大きく変える提案を二つしたい。
 
 第一に、法務省が行政訴訟の被告である行政当局に加勢する「訟務検事」を廃止する。被告行政庁は、必要なら部外弁護士を頼んでも、独力で訴訟を争うべきである。基本的に訴訟の両当事者は同じ目線の高さに立つべきである。
 
 第二に、公務員個人についても賠償責任を認めるようにすべきである。原処分の違法・不当だけでなく訴訟引き延ばしの責任も含めて、その時々の行政庁の責任者の個人責任も問い得る様にする。

 この方が、トップの決断によるスピーディでスマートな解決が図られるようになると考える。

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